連続の概念

私は物心ついて以来、毎日日本語を使っている。というか、ほぼほぼ日本語だけで生きているわけですが、かといって日本語の専門家ってわけではない。あたりまえだ。そもそも私には専門と言えるようなものは何もないわけなんだけれども。

素人日本語ユーザがあれこれ言ったところで、何だチミは! ってなもんだが、近頃日本語がおかしなことになっとるんじゃないかと気になることがありましてね。
募ったけれども募集はしていないという出鱈目のことではなく、丁寧に説明させていただくと言いながら何一つまともな説明をしないってことでもなく、ヤバいって言葉で悪いことも良いことも何でも済ませちゃうのってヤバくね? ってなことでもなく、連続の概念のことです。

先に言語ってのはもわっとしたもんなのよ、ってなことを、もやっと書いたけれども、「続ける/続く」という語のイメージも当然ふわっとしている。

時間として継続している状態を指すことは当然ある。
例えば、24時間麻雀を続けたってな表現。途中でトイレに行ったり、5人いて抜け番だったり、軽く飯くったり、どうする、そろそろ終わりにする?、なんてんで、手を止めて世間話をしていたとしても、24時間麻雀を続けたって表現にいちゃもんをつける人はいなかろう。っていうか、24時間遊んでばっかで、あんたたち、ふざけないでよ、なんてんで、家族から怒られたりはするかもしれない。というか、怒られたもんだった。
今や麻雀を例えに出しても、麻雀って何すか? よくわかんないっす、という現実があるような気がするが、ここまで殴り書いてしまったのを消すのも忍びないのでそのままにしておきます。
うん。こういう時間の連続性ってものはある。

昨日は宗太と小原と関ブーと、一昨日は宗太と利樹と亮と、その前の日は宗太と牧と衣さんと麻雀をしたのであります、ZZの親分や田辺や岸川もいたかな、というような場合、あんたたち、麻雀してばっかりで何かんがえてんのよ、なんてなことで叱責される……という話ではなく、佐藤兄弟は三日連続で麻雀をしました、と夏休みの絵日記に書いてもいいよね、という話です。
言いたいのは、「続ける」には時間としての継続だけでなく、行為の繰り返しとしての連続もあるってことですよ。
これが素人の言語感覚としてあるわけ。ちょくちょく辞書をひきたがる人間の日本語感覚としてあります。

なのでね、辺野古への思いや何かを全て取っ払ったとしても、「座り込み抗議不屈3000日」という表現に私は微塵も違和感を感じません。日本語としてごく自然な表現だと思います。

日本語の専門家の人はどう思うのかはわからんけれどもね。