紙の辞書が好きだな

私、けっこう辞書が好きなんですよ。
なんてことを書いたけれども、昔ほどじゃなくなってきたな。
それはなぜかと考えるに、紙の辞書じゃないものが主体になってきたからかもね。
デジタルの辞書ってのは便利です、こんなデジタル塗れの生活をしているならば、殊更に。たださ、紙の辞書・辞典類を眺めているときの楽しさはないね。実用以外の部分の楽しさというか。同じ頁に並んでる関係ない単語に目を引かれたり、つるっとして薄っぺらい紙の感触を楽しんだり、そこから、ぼーっと夢想に陥ったり。
私のようについでに生きているような人間にとっては、実用以外の部分はとても大切なわけでね。

辞書は便利だし、大いに役に立つ。みんなもどんどん辞書を引こう。うん。
ただ、使い方をまちがっている人もたまにいる。数学のような、1+1=2 という規則をそこに求めてはいけないわけ。そういうものではない。それは、世の中にさまざまな国語辞典が存在していることからも容易に想像できましょう。ルールブックじゃないんですよ。
巷に溢れる多くの辞書、それぞれに語義が載っている。それぞれに微妙に表されているものが異なる。一冊の辞書を引いてみてそれだけが正解だと思い込んだりしてはいかんものなんですな。慎重な人は何種もに当たってみるべきだし、そうして、何となくイメージを掴んでいくというような形でしか言葉と付き合う方法はないんじゃないかしら。

ぼくが「鉛筆」と言うときに頭の中にあるものときみが思い浮かべる「鉛筆」とは必ずしも一致しない。けれども、「鉛筆」という情報の受け渡しは概ね問題なくできているよねってなこと。
ちょっと鉛筆取ってよ、と言えば、たいていは、はいよ、と言って、鉛筆が渡される。ときには、鉛筆がないからこれでよろしく、なんてんで、ボールペンを渡されるかもしれんけれども。
その鉛筆だって、六角形だったり、丸かったり、黄色と黒のしましまだったり、本線のグリーンだったり、パーマンの絵が書いてあったり、木で包まれておらず全部がまるまる芯のものだったり、何年も経つとインク化して消せなくなるものだったり……などなどと、鉛筆もいろいろなんだけれども。いろいろなんだけれども鉛筆。鉛筆という言葉がじんわり包含しているもの。これが辞書の世界なんだぜ。ベイビー、わかってくれるかい?

若い頃、ヴィトゲンシュタインが好きだったんだよ。たまには読みなおすかな。