私は国葬には反対していた。というか、今でも反対。
「今後の国葬儀のあり方を検討する」なんてなことを今さら言い出しているおエライ人がいるそうだが、なんだ、そりゃ。ものすごいあとだしジャンケンがあったもんだ。こういうところがね、卑怯者って思わせるわけですなあ。まあ、彼にはじまったことではないけれども。
国葬に反対の人が過半だったとはいえ、賛成の人もいた。それぞれに思うところがあるわけで、ゆえにこそ国会で審議するべきだったのにってのが大事なポイントのひとつなわけですね。
だけど、私が今回のあれこれをチラ見チラ読みして気になっているのは別なところ。
国葬に反対している人たちは、国葬ってものに反対している。あたりまえと言えば、あたりまえ。
それに対して、国葬に賛成している人たちは、なぜか、国葬に賛成ってことよりも、国葬に反対している人に対して怒っているように見えたこと。
考えてみれば、これは今までの他の場面でもそうだった。
例えば、原発再稼働反対。反対派は再稼働そのものに反対している人が殆どなのに対して、再稼働賛成の人は、なぜか、反対している人に対して怒りを向ける。
不思議じゃないですか?
問題に賛成/反対があって然る可しだけれども、そのことと相手への怒りとは別なことなのにもかかわらず、なぜか相手への怒りに転化させてしまう人たちがいる。
問題を論じる、意見がわかれる、それはいい。そこから未来への道があらわれると言ってもいいぐらいだ。けれども、そこで相手に対する怒りになっちゃうのはおおまちがい。分断は何も生み出さないんじゃないかしら。ベイビー、君にいま伝えたいのはこのことなんだよ。